最初に、このソシオタイプ間の交流は、特に「教師と学生」関係の文脈で行われる場合、十分に興味深く、有益である。それにもかかわらず、両者が共有する利益が何であれ、これのみを根拠として彼らがカップルになることは難しいだろう。これは、この関係における両パートナーの感覚および倫理の側面に対する、活動と主導性の不足を理由とする。 それぞれが、親密になるために最初の一歩を踏み出すことが難しく、この種の主導権を取ることに居心地の悪さを感じるだろう。これには、あまりにも多くの意志的な決意と倫理的な努力が必要になる。同時に、双方ともに、まるで包囲攻撃のように捕らえられることを望んでいる。ILIは、無意識に双対SEEの圧倒的な活動に順応するため、この種のイニシアチブをパートナーに期待している。彼らがこの組み合わせで達成できることの殆どは、受動的なパートナーをあからさまな無関心で刺激して、活動させようと試みることである。 ただし、この戦術は同一関係の双方から、誤って解釈されるため、非建設的なものになる可能性がある。そのような「あからさまな無関心」は、二人をさらに遠ざけ、人間関係の形成を阻み、既に誘起させることは困難な活動に、冷や水を浴びせて停滞させる可能性がある。 この直感的な対立の結果、両方のILIパートナーは、一種の長期的な停滞状態で「フリーズ」して、待機する。それぞれの主導性の欠如が両者に深刻な失望をもたらさない限り、彼らはこの状態に留まる。この時点で、各々が関係の将来的な無益さを認識し、コミュニケーション自体が中断される。 出典: http://www.wikisocion.net/en/index.php?title=Identical_Relations_by_Stratiyevskaya