「美女と野獣」は「人を外見で判断してはいけません」という教訓を含んだ異種族婚の物語である。おとぎ話は深層心理学の分析対象として使われることが多く、どういう分析がされているか興味があったので調べてみた。ただ調べていて思ったが、おとぎ話の解釈にはその時代の文化・社会的背景を把握した上で、グリム童話および類話の違いを検討しないと表面的な教訓物語としか解釈できない。神話や宗教の知識も必要だろう。例えば、「シンデレラ」のドイツ語版ではアイダとピンガラという姉妹が登場するが、この名前が意味するものは古代インドにまで遡ることができる。現時点ではそこまで調べられなかったので、この記事では原作とディズニーの違い、および精神分析的にどういう解釈がされているのかという概要を紹介する。
まず「美女と野獣」には大きく分けて三つのバージョンがある。
①ヴィルヌーヴ夫人のオリジナル版
②ボーモン夫人の改作版(①を分かりやすく道徳的な童話風に短縮)
③ディズニー版(アニメと実写があるが、ここでは主にアニメ版を取り上げる)
三作とも「父親を人質に取られた美女が野獣の花嫁になる」という主題は共通しており、現代的な価値観で考えるとロマンチックな話だが、当時の社会背景を鑑みると、「人を外見で判断するな」という教訓は、道徳的な意味合いよりも「外見に惑わされず自分の利益になる結婚をしろ」という意味合いが強い。終盤に瀕死の野獣にベルが愛を告白するシーンがあるが、ボーモン夫人のバージョンでは結婚を誓うだけで愛への言及はない。
そもそも何故おとぎ話が精神分析の題材として適しているかと言うと、おとぎ話においては登場人物の感情と行動が直結しているからである。現実の人間は嫉妬したからと言って即座に相手を攻撃するわけではないが、おとぎ話では「嫉妬=殺す」であり、「娘に嫉妬した罪悪感に苦しんで思いとどまる」などという展開にはならない。そんな世界観で「人を外見で判断してはいけません」と言われても、説得力に欠ける。
ところでディズニーの「美女と野獣」はフェミニストへの配慮が見て取れる。元々ディズニーは女性蔑視という批判がある。第一次黄金期の「白雪姫」「シンデレラ」「眠りの森の美女」は当時の風潮を反映してか、いずれもヒロインが家事に励む姿が描かれており、同意なく王子にキスされたり結婚が幸福とされる結末となる。また、図を見ればわかるように総じて男性キャラクターの方が台詞が多い(諸々の事情はさておき、個人的には美男美女時代のディズニーの方が好きだった)。
さらに、ヒロインの外見に対する誉め言葉が能力や業績への賛辞よりも多いことや、「ヒロインの目が腰よりも大きい」ことへの批判もあった。こうした外見偏重の価値観を子供たちに刷り込む「偏見アニメ」の汚名を回避するためか、「ベルが本好き」という設定が加えられ、従来のヒロインが当然のようにこなしていた家事も免除された。しかし本当にフェミニスト向けの設定と解釈できるだろうか?あまり注目されないが、中盤で文字が読めない野獣にベルが本を読み聞かせするシーンがある。このシーンはストーリー上の必然性もなく、野獣が元王子ということを考えると、「文字が読めない」という設定自体が不自然である。「ベルが本好き」という設定は、「夫の世話をする妻」の図を作るために加えられたのではないか。その証拠に、実写版の野獣は読書家である。
ヴィルヌーヴ版では魔法をかけられた野獣が「知性を見せてはいけない」という設定があるらしいので、もしかしたらそれを反映しているのかもしれないが、ディズニーがそんなことまで考えるだろうか?というのも、「眠れる森の美女」ではオーロラ姫が糸車に指を刺して眠りに落ちるが、本来の糸車には指を刺すような場所はない。すり減った紡錘で刺したとか糸巻き棒の先で刺したとか言われているが、最新作「マレフィセント」でも糸車に存在しない謎の部品に取り付けられた針で指を刺しているので、「美女と野獣」の設定がどこまで考えられたものか疑わしい。
それはそれとして、ユング心理学的に「美女と野獣」はどういう解釈ができるか、という話をすると、ジョセフ・ヘンダーソンはこれを「若い女性のイニシエーション」と捉えている。この物語は美女が自分の本性の性的で動物的な面と調和して生きるため、父親の束縛からの解放を象徴しているという。美女が父親の下から戻らないため野獣が死にかける、という展開があるが、これは親離れできない娘を暗に非難していると考えられる。おとぎ話には「禁止・違反/命令・実行」という原則があり、これが道徳的教訓となっていることも多い。ディズニー版にはベルが野獣に禁じられた部屋に入って怒りを買う場面があるが、これは「青髭」で禁じられた扉を覗いた妻を彷彿とさせる。ペローは「青髭」を女性の過度な好奇心を咎める警告物語と解釈したが、これを「美女と野獣」にも適用するならフェミニスト的解釈は無理があるだろう。精神分析的観点では、ユング派は母娘の関係とイニシエーションを強調し、フロイト派はエディプス・コンプレックスまたはエレクトラ・コンプレックスを強調する。「美女と野獣」には母親が不在なので、構造としては美女の個性化と意識の向上を推進していると言える。
おとぎ話は主人公の精神が持つ側面を擬人化し、周辺のキャラクターに変換する。これに従って考えると、野獣はベルの影、ガストンはペルソナに該当する。ディズニー版はベルの成長要素には乏しいが、原作に存在しないガストンを置くことで個性化の流れがわかりやすくなっている。ベルは野獣を恐れながらも最後に結婚する。彼女が野獣を恐れるのは、シャドウが自分の負の側面を見せつける為である。ディズニー版の野獣は原作と違って感情的な振る舞いが目立つが、これは外見は獣である一方で内面は女性的、つまり男性性と女性性が統合されていない状態を強調している。ここまで書いて「そう言えば野獣って何の動物なんだろう」と思ってWikiを見たら「イノシシ、クマ、オオカミ、ウシなどを融合したデザイン」と書いてあった。オオカミは混沌、死、物質を象徴している。ベルが暗い森(無意識)で野獣によってオオカミから助けられた意味は言わなくても分かるだろう。
結論を言うと、ユング心理学的な観点から見た「美女と野獣」は男性性と女性性の統合の物語であり、ここに教訓的な意味をこじつけるとしたら、「結婚さえすれば幸せになれる」ではなく、「統合を果たさないと幸せになれない」と言えるかもしれない。
参考:
マリア・タタール「グリム童話-その隠されたメッセージ-」
Kathryn Sullivan ”Two in One: the Union of Jung's Anima and Animus in Beauty and the Beast"
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