主導機能としてのFi:ESIとEII
この人は非常に強固な愛情を持ち、感情や他者に対する態度に関して保守的であり、育んだ感情に忠実である。他者がこの評価に同意しない場合、非常に苛立つ。自分を欺いた人間を、心を入れ替えたとしても、永遠に嘘つきと見なす。これらの感情と評価が人生の中心部であるため、傍からはしばしばモラリストと見なされる。主導機能の産物は、外界には示されないことが多く、代わりに内部に保たれる。したがって、これが最も頻繁に起こるのは、何かがその価値観に障った時である。否定的な面はしばしば肯定的な面よりも際立って認識される。このため、そのような誤った印象を固持することがある。彼らにとって、物事は単に「良い」か「悪い」に分類されるものであり、何らかの一般的な言明を述べる以外には、何故そうであるかを明確に伝えることができないので、彼らの評価に異議を申し立てようとしても無意味である。以前に肯定的な関係が築かれた人の近くに留まろうとする。人々を「良い」と「悪い」に疑問の余地なく明確に分類する。「良い」人々は好かれ、「悪い」人々は軽蔑される。多くの場合、これは隠されているが、その人物が強い否定的な反応を引き起こした場合、彼らはそれを公然と表現することがある。大切に思う人々が周囲に十分に居ない場合、これは自分が存在しないことを意味するため、攻撃性を喚起される可能性がある。義務、名誉、尊厳、道徳などの概念-つまり、これらの概念に対する自身の認識に、極めて敏感である。このタイプにとって、自身の感情、気持ち、態度が重要であり、外部の公的なものには何の重要性も付与されないことがある。他者に対する態度は、特に低い評価から高い評価へ変化することは滅多にない。様々な感情と多彩なニュアンスを幅広く有す。自身の道徳規範から逸脱している人々に敏感である-それはまるで、この点で他者を絶えず制御し、気を配っているようである。ポジティブな感情は、「良し悪し」の予想と一致する行動によって、裏付けられるべきものである。社会において、彼らの倫理は個人的、主観的であり、規範として認められているものから大きく逸脱することがあるため、時に誤解される。しかし、このタイプは主観的な認識に深く固着しているので、唯一の解決策は、自身に同意して受け入れてくれる人を見つけることである。
創造機能としてのFi:SEEとIEE
このタイプは、他者に対する態度を頻繁に伝達する。自身の態度を利用し、人々を操作する。自身を取り巻くあらゆるものに評価を与えることを志向し、何が「良い」か「悪い」か判断する。時に同情と反感を日に数回変化させることがあり、これに関して非常に節操がなく気まぐれである。問題について、自身の見解に他者が興味を持つであろう場所を探す。したがって、芸術監督としての使命を見出すことがあるのは、この領域では自身の判断が認められ、評価されるためである。マネージャーやリーダーとしても同様に働きかけるが、ここでは判断の受容性が低下する。自身の評価を「進行中の仕事」、平凡でありふれたものと称する。まず他者を賞賛してから、叱責し、その後に再び賞賛する。地位を得ずにこれを行うと不適切に見えるので、これはしばしばそのような地位を獲得する動機となり、社会の需要が少ない自身の製品を静かに「売り込む」。誰でも批判する人間は誰にも好まれないことが多いため、通常そのような人物ではない。しばしば「異国の地に自家用機」で到着した人物として認識される。すぐに何にでも注意を向けて評価し始める。「これは良いが、そっちは酷い」「これは好きだが、それは好ましくない」など。紛争状況に興味を持ち、それらを引き起こして「評価する」という仕事を得ることさえある。これらの人々は、問題に関わることによって他者の共感を勝ち取ることが多い。これらに意識的かつ興味を持っており、上手く交流するために他者に順応することができる。したがって、しばしば優れた政治家となる。彼らの強みは、有権者の欲求を刺激し、彼らが何を望んでいるか把握する能力である。彼らの関係が信頼できることは滅多にない-「今日はあなたのことを好きだけど、明日は賛同しないし、その次の日はまた好きになる」。憎しみでさえ、呆気なく恋に変わることがある。彼らにとって、感情は興味深いゲームに似ている。あらゆるものの値打ちを知っているので、優れた目利きや味利きになることができる。評価することなく異性を放置することは殆どない。時に彼らの評価は道徳的な響きを帯びるが、判断に一貫性はない。状況に応じて、自身の評価を「他者の意見」に適合させることがある。そのような場合、より受け入れやすい形式、例えば「それは…と言われている」という形に落とし込むことがある。それを言っている人物を特定しようとすると、自説を巧みに隠蔽するために世論に関する語句を用いただけであることが判明する。
動員機能としてのFi:SLIとILI
このタイプにとって、周囲の人々と関係を築き、良い気分になって、誰かを大切に思ったり愛することが重要である。彼らが誰かを好きではない場合、自尊心も低下する。「他者を愛せなければ、私は未熟な人間だ」。彼らは状況から脱する2つの方法を有し、これはどちらにしても仏教的な方法-世界が不完全なことを認め、あるがままに愛するか、完璧な世界と人々を想像してこれを愛するが、実際の生活においては強い感情なく暮らすことである。他のあらゆる選択肢は、近くにいる人々を理想化した場合のように、自尊心の問題を意味し、遅かれ早かれ彼らの欠点に対処しなければならなくなる。理想を失うことは、強い負の感情と自尊心の低下を意味する。彼らは個人的な態度や判断を表現し、愛する対象や実行していることについて話す機会を必要とする。周囲の世界の理想化は、主要な問題である。彼らにとって重要なのは、率直な態度の表明を許されることである。したがって、歓迎される生活環境を選び、そことだけ接触するのは、自身の考えを確信をもって開示することができるゆえである。真実を語ることを好み、たとえそれで傷ついたとしても、適切に認識されることを望む。その場合、「しかし私は正直だった」と口にすることになる。自分の内なる感情の干渉を防ごうとする。このタイプからは頻繁に「私の心に立ち入らないで」と言われることがある。総じて憧れの対象から距離を保ちたがるのは、その方が失望しないためである。理想的には、自身に時間を費やす機会を定期的に持つべきである。愛情を動物や何らかの神秘的な存在につぎ込むこともある。この方が自尊心を維持するのは容易である。他者との長期的な関係において遅かれ早かれ道徳家になるのは、それが相手を理想に従わせる優れた手段であるゆえである。受動的な自己防衛では、周りの人々は全て不愉快だと言い始める。
暗示機能としてのFi:LSEとLIE
これらのタイプの人々は、どんなもの、どんな人にも好意を持てる環境に身を置こうと努める。何か、または誰かを好ましく思わない場合-これは環境を変える理由になる。他者をどのように扱うべきか口を出されると、積極的に受け入れようとする。他者の扱い方がわからないと、不快に感じる-これを説明できる人を必要とする。自身の評価と態度を表明することが許される場所を探す。これが許容される場合-その場に歓迎されているように思う。この点に関して、非常に疑い深く、何らかの客観的なデータに頼ろうとすることが多い。近しい人の評価によって極めて暗示にかかりやすく、これを通じて利用されることがある。初めての場所に身を置くことになると、そのような人がその場にいる場合、彼/彼女の評価に耳を傾け、自身の判断として採用しようとする。このタイプにとって最高の場所は、親密で信頼できる友人に囲まれるところである。万事がどのように扱われ、評価されるべきかを知っている、または正確に評価できる状況を好む。「これは白で、それは黒です」。そのような明快さに欠けていると、不快に感じることがある。共同していた友人たちやチームと別れることは、強い苦痛である-思い出は一時的な懐古の念をもたらす。長い間知っていた友人、同志、同僚を失うことはこの上ない痛手である。同様のことが私生活にも該当する。別の伝達方法では集団や共同体の承認が必要になるため、意図的に不祥事を誘発し、それを誰か(何か)に対する態度を表す方法として利用する場合があるが、この方法なら自由に現状を評価することができる。それから本当の評価に移行することで、安全に話すことができる。他者への感情を心に宿すと、愛によって強い暗示にかかりやすく、盲目になってどんなことにも目を瞑る場合がある。あらゆる常識に反して、この感情に惹かれる。このような人は他者への感情を容易に「プログラム」される(おべっかを真に受ける)可能性があるので、一般的に、そのような状況下では、この機能の位置は非常に危険な事態をもたらす。その結果、催眠術も必要とせず行動を起こすように後押しされる-このタイプは、それが誠意であることを信じて行動する。
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